昭和54年08月31日 朝の御理解



 御理解 第83節
 「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文と貯めたのは、みてる事はないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」

 百万円の、今はもっと大きいでしょうけれどもね、あの宝クジを引き当てようと言う心が、やはり人間の心の誰にでもある訳ですから、そういう心で成功はせんそういう心じゃおかげにはならん、という事を教えておられる訳でしょうね。信心でもやっぱり少しばっかりお参りしてから大きなおかげを、もうそれこそ棚からボタ餅が落ちる様なおかげを頂きたいと言う風に願う人があります。
 まそれは自分でいよいよ困ったり行きづまったりして、もうどうにもま神様のおかげどん頂かにゃという事でございましょうから、その神様のおかげをまいろいろ聞いたり知っている。たまにはそういった奇跡的なおかげと言った様なものもありますから、いうなら百万円の宝クジを引き当てるごたる気持ちでお参りしてくる人もありゃ、また信心している人もあります。
 だからそういう心掛けでは本当なおかげは頂かれないぞという事でございます。心掛けです信心は。それこそ一文二文と貯めあげると、信心をいよいよみっちり本当の信心を頂いて、その信心に現れてくるところのおかげ、いうならば産みなしていけるところのおかげ、これならば無尽蔵であり限りがない。そういうおかげの頂けれる信心を願わなければなりませんね。
 金光教のご信心はそういう信心を教えながらね、まぁいうなら痛い痒いの事から、苦しい事があるならばその苦しい事痛いこと痒い事をお取次を頂いて、それこそお取次を願ってお取次を頂いて帰る、という手立てがあるわけですね。だからそこだけを頂きますと、ただ御利益だけという感じですけども、そのお取次を願ったら金光教の場合は、一つのシステムと言うものがあってね、お取次を頂いて帰らなきゃならん事になっているんです。お取次を頂いて帰るという事が。
 こうやって私が皆さんに伝えておるお話しなんかはやっぱりそうなんです。御理解を頂いて帰るそしてその御理解に基づいた行き方で、自分の考え方の間違っておった事を、自分がお粗末な人間であった事を、段々深くわからせて頂いておかげを頂く。そんならそのお粗末な人間が立派な人間になってしまわなければ、おかげ頂かれんかと言うと決してそうではないのです。
 昨日、一昨日熊本の吉田という、熊ノ庄教会の教会長先生が久しぶりで参ってまいりました。まぁこの人はその当時本当に合楽に帰依をして、御信者をもう団体バスに乗せてお参りして来るという位に熱を入れとったのですけれども、関係がそのう甘木間係だもんですから、いろいろ問題がありましてね、それっきり先生が最後に言われた事を守り続けて今日までおると。
 御結界には何時も親先生の写真が、合楽の親先生の写真をここに置いてからおかげを頂いて、そして実際に大変おかげをまたこ今度お土地を購入して、新しいお広前が出来るというんだそうですけども、もうとにかくここにお参りして来た時には、全然信者が逃げてしまってお父さんの時分には随分繁昌した教会でした。それがお参りがなくなってお参りして来て、それから此処であのう信心の稽古をさして頂くようになって、第一にもうあのう合楽風にお神酒のお供えが大変多くなったんです。
 それから信者が昔の信者がどんどん不思議に帰って来る様な、おかげになって今日に至っているのです。先生が来てからちょうど敬親会でしたが、あのう言ってましたが偽ものでもねおかげを受けられるという事をいうのです。勿論自分自身の事を言ってるんじゃろとこう思うです。仲々発展家の先生ですから、いろいろ風評もやっぱあるんですけれどもおかげを受けておる、そこからはぁ私のような偽者でもおかげを受ける、金光教の信心はおかげが受けられると言うのです。
 私はそれを聞き乍ら私もそれを感じました。そうじゃんの偽者でもおかげが頂かれる、結局なら金光教なら金光教を見わたしてもね、なら本当の信者とか本当の教会とか、本当の先生とかと居るもんじゃないですね。例えば泉尾の三宅先生なんかが必ずわれ鈍物とこう言われますのも、やっぱそう言う表現だろうと思うんです。教祖様はそれを屑の子と言うふうにいわれる。結局偽物は本当なものじゃないけれども、いわゆる本当のものを目指して、一分でも一厘づつでも進ませて頂こうと言う意欲をもつ事だと。
 そして事実またいうならば人間も変わっていく、本当なものを目指して進んでいく。この神様はねそういう気になるとね、も本当なものになったかのようにしておかげを下さるんですね。ですからおかげをはぁとても、そげな立派にならにゃ生神様ごつならにゃんおかげ頂かれんと言うのじゃない。生神を目指すという事金光教の信心は。そして一歩づつでも一厘それまではだから偽ものなんだ、本なもんじゃないんだと言う意味の事を、ま田先生は言ったんだとおもうんですけれども、私もそれを思います。
 いよいよ本当なものを目指して一歩一歩進んで、そこがいわゆる一文二文貯めて行く様なもんじゃないでしょうか私は今日御神前で『治める』という字を頂いてから、さんずいというところを消すところを頂いたんです。そすとこれは土台の台という字になりましょうが、ム、口、と書いてねこう書いてみてごらん、さんずい偏のさんずいを取ったら後はム、口、台という字ね土台の台という字です。それでどういう事を頂くだろうかと思ったら、ならこの此処ん所の八十三節を頂いた訳ですから。
 今日はその台という事をね、一つしっかり身につけてもう早速実行に移して頂きたいと言う風に思うんですけれども、何でも同んなじです。家を建てるにもまず基礎が大事であるように、信心もねこの土台を作らにゃだめです。台ですここでは黙って治めるとこう言われるが、治めるとか治めないでなくて、その黙ってね黙ってそれを生神金光大神に、御縋りしながらいくような信心が、信心の土台になるんだということです。
 昨日私も聞きながら本当に身につまされるような思いがしたんですけれども、天野先生に電話がかかってきた或る所から。でこんなお届けですけれども親先生にお願いします、とこういうのです。三角関係なんです。それをもう目の当たりにそれを見たわけなんです。もうそれこそ、あのうそれこそ掴みかかってでも行きたい思いだっただろうと思うんです。それがもう一回二回じゃないんです。前からもその事がお願いがしてあったんです。またそういうたまたま場に行き当たって。
 もうそれこそもう本当にあのうね、それこそ掴みかかってくいつきたいごたる思いがするだろうと思うですね。特にそういう関係ですからね。けれどもここん所をもう本当に神様にお縋りして、どういう心掛けになったらよかろうかというその願いだった。本当に何か私はそれを聞かして頂きながら、私自身胸が熱うなった。世の中には様々な難儀もあるけれども、この事もまた本当に格別だろうと、それも丁度私はテレビを見てから、丁度そういう何かいまあぁいう事をするテレビがありますよね。
 もう本人をそこに置いてこういろいろ聞いたりするとがね、そういうのを丁度見て来とったものですから、なお私はつまされるような思いがしたんですけれども。神様にお願いをさして頂いたら、宮崎の『崎』という字を頂くんです。山を書いていうならあの奇跡の奇が書いてあるでしょうがね、さそこをねそこをじっとそれこそ辛抱してですね、神様へ縋ってね、お縋りして行く信心をつづけていきよれば、必ずいうなら不思議な働き、奇跡的なおかげも起こって来るだろう。
 そしてそれが三人三様各々が立ち行くおかげになってくるだろうね。それこそ掴みかかって行きたいごたるその思いを、きっと生神金光大神様で押さえて、そして神様にお縋りして行きなさいよ、というてま言ってやりましたけれどもね。まあ本当に黙っちゃ治められないところ何ですけれどもね、まぁ一事が万事にそういう信心をですね、そういう難儀なところを通って、いうならば奇跡的なおかげを頂いた時にです。
 初めて信心の土台と言った様なものが出来るのじゃないでしょうか。基礎です。何にんならん事あるけれども、その繰り返し繰り返し一文二文と貯めあげていくという、そりゃ大変難儀な事なんですけれども、それが信心の基礎になる。そこに信心がうち立てられていくという、皆さんどうでもね。先ずは信心のいうならば土台を作らなきゃいけません。その土台作りにはです今合楽でも言われます。
 黙って治めるという事なんですけれどもね、黙っとりゃすぐ治まるという事じゃないんです。それを辛抱し抜かせて頂くうちに治まるおかげにもなりゃ、今いう山偏に不思議なるおかげというかね、そのおかげが頂けれるんです。しかもそれをおかげを頂いた後で考えてみると、はぁあの辛抱し続けた生神金光大神様を唱えた、あの時に私の信心の基礎土台が出けとったんだなぁという事になってくるんです。
 昨日午後からでしたが久留米の佐田さんが御礼に出て来て、もう今日はあの主人の誕生日でしたがコロッと忘れとった、で改めて御礼に出らせて頂いたというて、まぁ誕生の御礼に奥さんが出て来られました。そしていろいろお届けの中に、昨夜うちの主人お父さんですね佐田さんがこういう事を申します、ま幾つかありましたけどその中の一つを申しますと、合楽理念という事の中には犠牲はないぞという事です。もうこれは佐田さんにして言えれる言葉だと思うです。
 初めて合楽に佐田さんが御神縁を頂かれたのも、やっぱりそういう時代だった。それこそ佐田といやあ久留米のもう名門ですね。佐田興ですね本店が佐田興です。ですけれども、その頃はもう佐田さんのお宅でもそうだったんですから、いうなら佐田家再興建て直しのためにもう自分なもう、もうとにかく佐田家の犠牲になろうと思うたと言われるんです。それこそリヤカ-を引っ張って野菜を引っ張られた時代があるんですね。そしてあのう、食料品の店を大変繁昌致しました。
 そういう時に日田の奥さんの里の方があのう、いわば何ち言うですか、まぁ没落同様になったわけです。それであの夫婦であちらのそれこそ建て直しに行かれたわけです。そうですね、四・五年もおられましたでしょうか。そしてもう見事に建て直った、綾部さん達が一番よく御承知です。そりゃもうあぁいう御性格の方ですから、もうそれこそもうま金光教の信心で、いうなら実意丁寧をもっておかげを頂いて、そしてそれを今度は妹婿達にもそれこそあのそのまま譲ってかえられたんです。
 そして今佐田興がも没落寸前にあるような佐田興に入られてもう、それももうそれこそ本当あんた馬鹿じゃなかのと言われる位な、あのういわゆる給料も安かったです。それこそもう黙って辛抱しぬかれて、まぁ佐田さんがおらなければと言う様な所にまで行かれて、そしてこう佐田さんの例えば、半生なら半生というのを思うとね、確かにそうなんです。一人の弟さんがおられます。これだけは立派な学問を身に着けてというて医大、そしてお医者さんになされました。現在福岡におられます。
 もう弟のための犠牲を、自分から買うて出られるという感じですね、もう弟が成功さえすりゃ自分なその犠牲になろうね。家内の里がね立ち行くなら、も自分はいつでも手を引くね、いうならば佐田興の、そのお店に入られたのもやっぱそうでしたが、ま今日に至っておるわけなんですけれども、そしていうなら分かられた事は、合楽理念をもってするならば犠牲ちはなかぞということである。はぁあの人は本当あそこの犠牲なったるごたる事と、まぁいうなら馬鹿を見る事をそういうでしょう。
 だからそういう馬鹿を見るような犠牲じゃいかんのです。もうこちらが犠牲になろうという信心によってするならば絶対犠牲にはならんです。おかげで力を受けておるです。おかげで自分の心が、こんなにも豊かに大きくなれておるという事なんです。だからあの犠牲になろごつなかばってん犠牲になったち言うならいかんです。それは本なこて犠牲になってしまうですね。だから私昨日研修の時に皆に申しましたが、どうでも合楽教会の犠牲になろうという気持ちになんなさいと。
 教団の犠牲になろうと思いなさいと、沢山な人が助かっていくための、本気で犠牲になろうという気を起こさして頂きなさい。いやいや乍ら犠牲になったっちゃもう犠牲になってしまう。だからこれが本気で人が助かる事ならばね、という位ないうなら熱意をもっての犠牲になろう、犠牲の精神ですいわゆる。それを私は今日いうならば土台無口という事、黙って犠牲になっていくという信心なんです。皆さんどうですかね。合楽建設も着々と進んでおるんですね。
 合楽建設の一つの石据えにでも犠牲にでもなろうという腹を決めてね、そして神様に願う気になってごらんなさい、神様は使いなさらん筈はないです。使うて下さるです。そしていうならば信心の土台が出来た。信心のいうならば基礎が出来た。ム口と書いて台と読む何んでも同じこと信心にも土台がいる。ただ濡れ手で粟のつかみ取りの様なくて、何か漠然としてです棚からボタ餅が今にも落ちてくる事ばぁっかりを、願うておるような信心じゃいかん。
 昨日熊谷さんが言っておられましたが、隣に餅まきがあった、まぁだ生まれてから餅まきの餅を拾うたこつがなか、いっか先生が餅まきの時にはね、下ばっかり見ときゃよかばいち言われた事を思い出してからね、あぁ大概な者がおっちゃんここ、ここち言うちから上ばっかり見てから手叩きよるけんで、落ちた時には人が拾うとる時じゃんね。だから下ばっかり、こうやって見ときゃええじゃんなか、下ばっかり見とったらそのお餅を拾うたという昨日お届けがございましたがね。本当にそれこそ黙って治める。
 自分の足元を見詰めて自分の心の状態を、言うならばいっも見詰めさして頂いて、それこそ偽もの我を悟る事、本なもんじゃない自分を分かる事。そしていよいよ本当なものを目指さして頂くと言う事、そこに私は基礎作りの信心黙って自分というものを見極めて行こうとする信心、私は今日のこの御理解の中からそんなものを私が今日頂いた、その治めるという字のさんずいを消したム口と頂いて、今日の御理解を頂くと台というお互いの心の中にある、その濡れ手で粟の?み取りになると言った様な心を振り捨てて。
 そして先ずは土台づくりね。ただ申し上げれるのはお取次の先生に申し上げる事だけ。この事はもう誰ぁれんそりゃもう悩みがありゃ、もうだれに聞いてもらおう悔やまなん事は誰かに聞いてもらおうと言う様なものじゃなくて、そこを一つ黙って信心のこれが土台作りだ、と言う様な気持ちでおかげ頂いていかれたらね、それこそ立派な土台が出来るでしょう。その土台の上に打ち立てられるおかげはもう限りがないおかげね。当然願わんでも頂けれるおかげ、しかもそれは限りがないもの無尽蔵のおかげにつながる程しのおかげの土台を作りたいとこう思うですね。
   どうぞ。